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昭和11年度卒 葉山三郎
最初に学生チームをつくってアメリカへ行ったのは早稲田大学柔道部で、笠原さんが主将の時だったと思います。その直後昭和5年(1930年)牧野さんが監督で明治大学柔道部学生8名くらいでアメリカ遠征をされました。私は昭和11年に、明治大学の一行を連れて行ったのです。11名のメンバーで。5段5名、4段5名と通訳が1名いました。上陸したのはサンフランシスコで、フレスノ、サクラメント、ガタロップ、ロサンゼルスと6コースをとり、帰りにハワイで1週間滞在しました。
2回目は昭和12年で、これは個人で行ったのですが、先年学生と遠征した時、ロサンゼルスで知り合ったミセス・ローガン、ミス・プリチェットという二婦人の親日家がおられ柔道に非常な興味をもって日本に来られ、嘉納先生に会われて柔道理論を聞かされ心酔されたわけですね。早速だれかロサンゼルスへ来て指導して欲しいということで、私の名前を出され、嘉納先生もよかろうと言うことで渡米したのです。渡米までに二婦人は京都の福島清三郎さんの道場近くに家を借りて柔道の形や乱取りを練習しておられました。


葉山元監督とローガン夫人
当時支那事変が勃発した年で大動員があり、私も招集を受けていたのですが肋骨を骨折でギブスをはめていたので解除され直ちに渡米することになったのです。二婦人の柔、投、固、極等の形はなかなか上手でした。嘉納先生はオリンピック大会東京招致の問題でヨーロッパを廻ってロサンゼルスに来られ、二婦人と将来のことについて話し合われる約束のようでしたが、シアトルから急用で帰国の途中不幸にもご逝去されました。
米国人を教えるのに苦労しました。好奇心にかられ来るのですが続かないのです。それで興味をもたせなくてはならないと思って、柔道の形や、当て身のようなものから空手の形までやらせて、だんだん乱取りというところまで持って行ったものでした。結局25名位道場へ来るようになり、そのうち5名は女子でした。私自身は生活のため日本人道場に週5日ばかり行って、白人の方は週2日教えることにしていました。
当時はもう日米国交関係が険悪で、独りで白人の映画館へは行けなかったものです。そのうち米国政府からロサンゼルスにいた映画俳優鈴木伝明、プロボクサー玄、歌手の松山氏と私に退去命令が出され、鈴木伝明氏はメキシコへ逃げ、松山氏はヘレンケラーの礼使としてニューヨークへ、私は出来ればニューヨークからヨーロッパを廻って帰国したかったのですが、玄と私は船を指名され帰国の止むなきに至ったわけです。
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