栄光の歴史

 柔道クラブ発足から

  明大柔道部復活まで

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 全日本学生柔道優勝大会

 昭和5年頃

 昭和8〜33年頃

 栄光の明柔チャンピオンたち


 アテネ五輪のメダリストたち

【寄稿】

格闘技(柔術)と柔道の違い

 




格闘技(柔術)と柔道の違い


篠原一雄

まえがき

アメリカの柔道界は、柔道教師・コーチのライセンス制度の組織化により、危機管理を含めてその質の向上を計り始めてから久しい。刑事事件、セクハラ、児童虐待事件、飲酒運転などの経歴の持ち主は、柔道教師・コーチとしてのライセンス取得は難しい。
アメリカは特に訴訟社会であり、現場指導者に対しての教育の為、正しいスポーツ柔道及びその安全性を損保問題と併せて徹底させるためにライセンス制度を導入したのである。ライセンス保持者の指導者の下で柔道修行中に不慮の怪我の場合は損保処理が有効なのである。

しかし、そんな苦悩のいばらの道を歩む柔道が、その発展途上に於いて、アメリカならではの新しい問題点に直面している。

移民に寛大な国アメリカへ諸外国から混入してくるあらゆる格闘技の中でも、「柔術」と称するファッションが若者の間に流行し始め、格闘技(柔術)プロとの風潮で、オリンピック・スポーツ柔道練習の中に侵入してきている。格闘技(柔術)プロ達が平然と柔道道場で柔道の練習を行っているのをあらゆる道場で見かけるし、また、反面柔道の生徒達が格闘技大会(柔術)に出場して新聞テレビを賑わす。この様な状況の中で格闘技(柔術)指導者専業の人たちがスポーツ柔道の充実した保険(損保)制度の便宜上、その概念の如何に関わらず柔道教師としてのライセンスの取得を目指す傾向が出てきている。どのようにして「スポーツ柔道」と「柔術」と称する流派(?)を見極めるか?混同されつつある格闘技専業指導者にどのようにしてスポーツ柔道教師のライセンス授与を拒否すべきか、厳粛な行政処置判断の必要性に迫られている。嘉納治五郎のスポーツ柔道が、民主主義国家、自由な国、訴訟社会のシンボル先進国アメリカで100年余りにして、皮肉なことに「柔術」と「スポーツ柔道」の定義づけが最重要課題として浮かび上がり、このような文献の発表につながった次第である。

 

柔術の原点

日本での柔術の誕生は、江戸時代初期、即ち西暦1603年頃、中国から伝わったのが起因ではないかと言われている。注目すべきことは、柔術は2人の医学者が患者の健康推進促進のために始めたとの説が有力である。秋山四郎米兵衛義時(小児科医)と三浦陽心は両名とも備前長崎にて医学を職とする人達で患者の健康のために、陽心流柔術2派の創設を計ったのが原点とされている。三浦陽心曰く「人の病にかかるのは、多く座食して心身を倦怠せしめるからである。故に病気を未然に避けるの方法は適当の運動をするにある」と常に門弟に語ったと言われている。

秋山四郎兵衛義時は医学留学生として明(中国1368~1421年)末期頃に渡り、白打(はくだ、中国武術の一種)の3種類の業(わざ)を習い、活法(蘇生法)28種類の手ほどきなどを受けていた。
一方、三浦陽心は、明(みん)から日本に帰化していた陳元チンが当時支那で行われていた拳法の講義を行ったのを参考にして医療を目的とした柔術を考案したといわれている。

 

武術(柔術)−実戦用格技としての発展

西暦1477〜1573年頃まで続いた日本での戦国時代から1603〜1867年頃の江戸時代にかけて約250年間続いた鎖国政策を基に日本国内では格闘技としての武術(柔術)が非常に危険な攻撃・護身用技としての戦闘格技として発展をなした。当時の柔術とは、柔術、柔法、組打、鎧組、和術、体術、捕手、小具足、腰廻り、拳法、白打、手縛などと呼ばれていた素手武術の総称である。戦国時代は剣術主導型の社会で、あくまで刀剣が勝負の決め手ではあったが、剣が折れたり手から滑って紛失したり、寝込みを襲われたりした場合などは、敵の攻撃を素手でわが身を護らねばならず、柔術(素手での戦い)にて相手を倒すすべを知ることは重要な武士としての心得であった。したがって剣術が支配した世の流れの中でも、柔術は剣術修業と並行して発展していったのである。

封建領主は、常に知名度の高い剣士を探し求めては、試合のルールなどない真剣勝負をさせた。こうした最精鋭の剣士たちは、殿様の前で双方のどちらかが倒れる、怪我をする、命を落とすまで戦い、勝負を決定し、殿様から「でかした」と賞賛されるのである。柔術も同じことであった。人の命を犠牲にしてまで武術の更なる進歩を重要視した危険極まりない思想である。アメリカの歴史の中でも西部開拓初期には同じような思想がピストルなどのさばきの早さで社会的地位を築いていた時代があったと思う。

日本ではこの武道(柔術)を門弟生徒に伝達する際に、愛すべき門弟生徒に怪我をさせなければ証明できなかったであろう。教えることは、大変困難であったであろう。この事実を裏付けるが如く、柔術は、アメリカで言うカイロプラクティック治療に似た接骨医療を始めるのである。現在では必須とされる医療制度ライセンスがなくても行っていたのである。

徳川将軍江戸時代末の1853年、アメリカのペリー提督は黒船艦隊4艘を率いて浦賀港に到着し、日本に開国を迫った。日本国も色々な内戦を経て近代化の一途をたどり始め新政明治時代(1868〜1912年)へと進んでいくのである。しかし、日本社会が近代化するにつれ、「切り捨て御免」の概念、武道奨励策も、個人戦法から近代的団体戦法に移行し、鉄砲の導入などにより、剣術・武術の達人たちの職業を必要としなくなり、浪人の続出をみる結果となる。

その間、1880年頃まで様々な柔術流派は、厳しい練習を続けながら戦闘格技練習が存続されていった。関口流、竹内流、陽心流、起倒流など、それぞれ特技を極秘として残留して生き延びていたのである。その他の一部の流派なども芸術的価値観として生徒たちを傷つけないように形などの形式で伝授しながら、技そのものが芸術的なものとなり実践からは程遠い技ではあったが受け継がれている。
例えば今日の空手の試合では、技をかけて相手を打つと負けになるが、戦闘的な技の効き目が芸術的に残されているものであり、技の効き目が証明できなくなっている一例であろう。また、剣道なども実際に刀で切り合いをする伝授方法は無理である。

 

嘉納治五郎が講道館柔道として柔術を近代スポーツの柔道としてその変遷を成功に導いたポイント

ここで、スポーツ柔道の発生として大切なことは、明治15年5月(西暦1882年)に嘉納治五郎によって近代的なスポーツの概念を主旨として講道館と称する道場(心身修養の場所)を永晶寺の片隅に、心身の鍛錬を目指して人間形成の場所として設立されたことである。嘉納治五郎は柔術流派「天神眞陽流」を軸として「起倒流」の成立した前提を理解しながら、それを新しい観点から集大成しつつ、体力の強化や、柔術から学ぶ原理を人生諸般のことに応用できるとしての事実の近代化を計ったのである。その大きな軸となるものとして、次のものが挙げられる。

1) 近代スポーツとしての認識には、殺意のある危険な技は禁物である。そこで危険な柔術の技というのは形の形式に収め、その原理を相手に危害を加えることなく教える方式を取ったのである。(形認定記念写真参照)
公式に柔道としての統一を計るには、日本全国の荒くれ柔術家を説得するために、相当の政治力も必要としながら、講道館柔道は強くならなければならなかった。嘉納治五郎が、政治力を発揮できる社会的地位の高い教育者であったことも、大きな成功の路線を歩むことが出来た要因である。
2) 危険な技を省略しながら、しかも相手を倒す格闘技としての魅力ある実践を保持証明すべく、芸術的な形のみならず、立技、固技、絞め技、関節技などの実戦有効性を証明できる技を伴った乱取り稽古を通じて受け身の重要性を説きながら柔術の重要な部分の存続化を図り、近代スポーツ柔道としての発展存続をしていったのである。
3) 近代スポーツとして精神修養の教えとして講道館が打ち出したのは、精力善用、自他共栄という目標である。簡単に説明すると、精力善用とは、道場で乱取り稽古をする時に掛ける技はその方法に無駄があっては相手を倒すのに不充分であり、力学的に相手の動きなどに添って自分の力を最も有効に仕掛けるよう最大限の効力を発揮する技の習得をすることを意味する。
更に、乱取り稽古には相手が必要であり、相手に技を掛け、自分の技の鍛錬をするのである。反面、相手も技を掛けてきて、その効力を試しているのである。乱取り稽古は自分も相手も技の上達を助け合っているのである。まさしく自他共栄であり、この柔道の考え方は、人間すべての社会生活のあらゆる分野で適用できるというのが柔道の教えの理念である。
柔道以外のほかのスポーツにも同じような精神理念は暗黙のうちには存在してはいると思うが、特に柔道の創始者、嘉納治五郎が柔道門弟にこの倫理を徹底し、柔術のような破壊主義格闘技概念から脱却させ、格闘技を近代社会の建設的な応用に返還させたことは特筆に値する。


また、柔道の指導者層の老齢化に伴い、技術的に後継者の若者たちの実力が上回る実情からも、反逆児などのコントロールも精神論「相互主義」などの教育理念を説いて、自他共栄に結びつけ、柔道の師弟関係を温暖に組織化して、10段に及ぶ黒帯の段位の発行などにより、柔術のような破壊主義から統一主義に変換させていった柔道は、柔術時代の概念「切り捨て御免」の世界から、人間社会に大きく貢献するものとなり発展していった。講道館柔道が今日の世界への飛躍に連結していって世界の柔道の根源となったことは、その理念が近代社会での応用力の偉大さが世界に認められたことであろう。実際、195カ国からなる国際柔道連盟(IJF)の定款には、嘉納治五郎の柔道が連盟の基本と認識されていると提唱されている。

 

柔道がアメリカに渡ったルーツ

アメリカには武術(MARTIAL ARTS)の教えが1900年代以前に始められた経緯は見られない。最初にそれらしき柔道との接触があったのは、1879年にグラント大統領が日本訪問の際に柔術の嘉納治五郎(当時19歳)のデモンストレーションを見たのが最初とされている。その後、1889年にエール大学のLADD教授が講道館を訪問、柔道の教えに真剣に触れたとされている。

実際にアメリカで柔道が教え始められたのは、1903年10月17日にシアトル市において山下義昭6段が派遣第1号として柔道デモンストレーションを行った。その後、山下氏はワシントンDCに移転、セオドール・ルーズベルト大統領に柔道を教えたのをはじめ、女性群、特に上院議員リー氏の夫人や、WADSWORTH夫人などには投げの形を中心に教えたのがアメリカで柔道が教え始められた最初である。

第2号として1908年12月5日、富田常次郎6段、前田光世4段、山内繁雄博士の3名一行が柔道普及のためにニューヨークに渡っている。親日派とされていたルーズベルト大統領の計らいでホワイトハウスでレスリング臣漢との試合で、富田常次郎6段が体重約160kgのレスラーに強力な胴締めに合い、息が出来なくなり敗れてしまった。富田はアメリカにいられなくなり帰国したが、前田光世4段は日本柔道の威厳を示すべく雪辱を誓い、その名誉挽回のために賞金を懸け生活費を捻出しながら戦いを続け、約1000回以上挑戦者に勝利を収めている。前田光世柔道は無敗の興行であったが講道館からは破門をされている。嘉納治五郎の柔道の理念に反したのであろう。

前田光世(コンデ・コマ)が最後の放浪の旅から最終地ブラジル・アマゾンに辿り着き、カルロス・グレーシーの父、ガスタオ・グレーシーから「柔術で鍛えてくれ」と依頼されているが、グレーシー家族に教えたのは講道館柔道である。エリオット・グレーシーは自分の流派(グレーシー柔術)を生み出し、柔道家木村政彦とも闘うことになり敗れてはいる。ヴァーリー・トウド(VALE TUDO)「何でも有効」などと近代スポーツの概念から程遠いモノに変遷していっている事は、スポーツ柔道に関与している者としては、せっかく嘉納治五郎が多大の努力をして教育の一環として育ててきた前田光世経由の柔道教授が逆流しようとしているのが残念でならない。いっそのこと、さらに奥深くルーツを遡って、先にも述べた柔術の元祖―医者の三浦陽心や秋山四郎兵衛義時らが患者の健康維持のために柔術を用いた時代の概念に一挙に逆戻りすべきである。

また、時期を同じくして、やはり講道館の四天王の一人、広瀬武夫中佐も講道館柔道をロシアに広めたが、ロシアでは柔術家として知られ「サンボは柔術から影響を受けた」と誤解されている。広瀬武夫中佐もロシアでは柔術家としての知名度の方が高いかもしれない。

現在のアメリカの若者達の間で、柔術、拳法、空手、テコンドー、グレーシー柔術、武士道などなど武術と解釈、芸術的な護身用などと解釈され、一定のファンタジーとして流行の傾向にある。また、柔道のコーチや教師人の中にも営利的概念が混同され、スポーツ柔道としての存在が一般人の中には何となく混同されて解釈されているように思われてならない。もともと講道館の柔道が嘉納治五郎によって産声を上げた頃には、柔術の一流派としての一般大衆の理解が崩れなくて、門弟の間では柔術の技を練習していると思われており、柔術と柔道を明確に区別する習慣がなかった時代もあった事は事実である。

現に、日本では有名なベストセラーとなった小説夏目漱石著『坊ちゃん』(1906年―明治39年)、富田常雄著『姿三四郎―JUDO SAGA』(1908年―明治41年)(注:富田常雄はアメリカでレスラーに敗北した講道館の四天王、富田常次郎の子息である)の中でも「柔道」のことを「柔術」と書かれているのをみても、柔道の発生地日本に於いても人々の間で柔術をファンタジーとして歴史的事実を完璧に否定できないで根強く生きていた時代があった。

 

日本の柔道が世界の柔道として発展 − オリンピックスポーツの一種目としての柔道

柔術から柔道へ変遷、さらにオリンピック種目として到達するまでの過程で柔道は色々の茨の道を歩んでいる。世界柔道連盟(IJF − INTERNATIONAL JUDO FEDERATION)は1952年に設定されたが、現在は195カ国が参加、オリンピック委員会の柔道技術部門の総括を担いながら、世界柔道選手権大会をその技を競う場として安全な近代社会に適したルールに基づき提供している。また、スポーツ柔道はオリンピック競技としてそのチャンピオンを4年に一度誕生させているのである。

1964年の東京オリンピックにて初めて柔道がオリンピックの公式種目として認められたが、これは、アメリカの指導力のおかげである。戦後IJFが設立されてから柔道がオリンピック種目として参入できるのが世界の柔道家の夢であった。それは、嘉納治五郎の夢でもあった。現に、嘉納治五郎が戦前1936年のベルリンのIOC会議にその提案をしているが、IOCからオリンピック種目としての採用を拒否されている。第二次大戦終了後、アメリカのAAU(体育協会)は世界のスポーツ界に強力な影響力を発揮していた。その頃、アメリカ国内でも柔道をオリンピック種目に取り入れようとする動きがあったが、当時、体重別を認めていなかった柔道は、オリンピック関係者の間、特にAAU(アメリカ体育協会)の中で、100ポンドもの体重の違いがある選手同志が試合をするのは、スポーツではなく野蛮な武術であるとの理由で相手にはされなかった。苦肉の策として、1953年、アメリカで初の第1回体重別の柔道選手権大会が開かれ、これがAAUにスポーツとしての柔道を認識させる大きなインパクトを与えたのである。

ちょうどこの頃、IOCの会長、有名なAVERY BRUNDIDGE(ブランディッジ)氏が米国カリフォルニア州サンタバーバラに在住、強力な柔道愛好家、カリフォルニア大学バークレー校のヘンリー・ストーン(HENRY STONE)博士がブランディッジIOC会長の親友であったことと、元USJI(全米柔道統括協会)会長であったヨシ・ウチダ氏がサンノゼ大学の柔道コーチとしてヘンリー・ストーン博士との親交があったことが、柔道が今日のオリンピックスポーツとして参入できた大きな原動力となっていることも特筆に値することである。

柔術ではなく、スポーツ柔道として今後も歩んでいく必要性は、今日の多くの柔道の先生方は認識すべきである。武道である柔術とは古い、過去のものであり、近代スポーツとしての価値を見い出すのは柔道であることを、一般の人達に理解させるのが柔道コーチ・教師として緊急の課題のような気がする。

更に現在のアメリカの柔道の歩みも、今後の発展がスポーツ柔道の根本理念に基づいて早く統一して、力強い総合的な精力善用・自他共栄を実現させていく必要性をアメリカ全土の柔道コーチ及び教師陣が認識すべきではなかろうか?

かつて嘉納治五郎が1930年代に世界のスポーツ柔道の現状に危機感を感じ、日本国民に説いた文章の一節を借用して下記引用させて頂くが、アメリカの柔道コーチ及び教師陣が現況のアメリカの柔道の更なる発展に寄与できるよう参考資料になれば幸いである。

*****
近来の我が国は、労を厭ひ逸を追ふものが益々増加し、奢侈贅沢風をなし、至る所、個人も団体も喧嘩小競合ひで精力を消耗しつつあるの現状である。之を救ふには一面柔道の原理を社会生活に応用した主義である精力最善活用に依って各般のことを行うと同時に、その自然の結果として成立する相互相譲自他共栄主義を以て個人団体相互の融和強調を図るより外に有効なる道はないと信ずる。
<中略>
この時に当って、柔道の説く所の社会生活の存続発展の原理に基いて道徳を説く時は、道徳は確固たる憑拠を得、思想も統一せられ、各種の宗教や学説も大いにその光を放つに至るのである。更に国際関係に考を及ぼせば、我が国は実に寒心に堪へざる境遇にあると言わねばならぬ。我が国は欧米諸国と人種を異にして居るのみならず、言語宗教風俗習慣その他多くのことについて異なってゐる。随って特別の努力を用ひなければ、それらの諸国と真の親善関係を維持し難いことは明瞭なことである。それにも拘らず従来我が国民は、この必要なる努力を欠いてゐた為、今尚真の友邦を世界に得ることが出来ずに居るのである。千数百年の古い交りもあり、人種も近く文化も近く同様の文字を用ひてゐる隣国支那との関係を見ても、如何に従来我が国民は国際関係に無頓着であったかが分る。この国際関係を改善するにも、自他共栄の主義を徹底的に行ふより他に手段はない。
*****
昔からよく「歴史は繰り返される」と言われるが、70年前の嘉納治五郎がスポーツ柔道を社会に貢献させようと念願した文章である。現在のアメリカ柔道界に置き換えてみて各人奥深く勉強してみる必要があるような気がする。

篠原一雄
Judo Research & Development Group Inc柔道研究会代表
USJI TEACHER’S INSTITUTE COMMITTEE - Faculty Member
1958-1959年度 講道館研究生
1958年 南米全階級選手権大会優勝(ブラジル)
1959年度 明治大学柔道部主将
1962/1963年 AAU(全米体育協会)公認柔道全階級グランドチャンピオン

注:すべての参考資料の明記は省略させていただきます。

 

あとがき

この原稿の構成に関して数多くの参考文献を参照させていただいたが、その列記は省略させていただいた。過去に色々努力され研究発表された方々、ウェブサイトを設立されている方々、また更にこの原稿構成に資料の提供を頂いた日米両国の協力者の方々にはアメリカ柔道界に代わり多大な感謝の意を表したい。

日本に於いても最近法廷裁判にはアメリカと同じ陪審員制度が導入されつつあり、訴訟の裁決が一般社会人によって出される時代が来ている。柔道の現場の先生方々も色々な面で行政制度の適用、生徒の取り扱いに関する面では、ある局面に差し掛かってきているように思われる。

従来からの慣習・歴史・思想などが柔道に全く理解の乏しい法廷陪審員の人たちが一番理解しやすいことは、講道館柔道5段も10段も一般の素手の人たちに比べれば、より強力な銃や刀剣を所持しているに等しい程度に結論づけられるだろう。人口比率の割合の低い柔道修業者の間だけでは当たり前のことでも、訴訟社会に突入していけばいくほど、柔道の教え方も保険会社・損保がらみの柔道人口以外の世の大半の人達に対して現況に適した確固たる納得のいく理由付けが必要となってくるだろう。

この文献が「なんだ、日本ではとっくに分かりきっていることではないか」などと簡単に読み流していただくのではなく、今後の日本の柔道界にヒントとして参考になれば幸いである。尚、この文献はアメリカにて英文で発表したものを日本語に翻訳したものである。